「面倒をみる」ということは?

今回の内容

 ***

 

「面倒をみる」必要がある?

「あのチームは○○ができていないから、わたしたちのチームで△△をしたらよくなるんじゃない?」

「あのチームのリーダーでは現状、対応ができないからわたしたちがフォローした方がはやいよね」

*

上記のような発言は周りできこえてきたり、自身で発したりする、身近な内容。

ものには「程度」「限度」があるけど、必ず「決断」、例えば他のひと、他のチームにこちらから関与するか関与しないか、という意思決定がつきまとう。

*

このような「面倒をみる」ということをする場合、いくつか気になるところがある。例えば以下です。

  • 「面倒をみる」対象はグループ?個人?
  • 「面倒をみる」範囲はすべて引き受ける?それとも部分的に引き受ける?
  • 「面倒をみる」期間は決まっている?それとも一生?
  • 「面倒をみる」のが終わりました!と宣言できる?

加えて、

  • 「面倒をみてあげる対象のひと、チームがその後、自立できるか?」

という視点も必要。結構大変!

ちょっと大きな話になるけど、国が行っている福祉政策は「一生面倒をみます」というものです。これはわたしたちから吸い上げた税金で賄っているから、国の政策を決めているひとたちの懐は痛まない。また対象になったひとたちは(表現が適切ではないかもしれないけど)「自立」を求められない。

じゃあわたしたち個人が誰かの面倒をみようと思った時はどう?自分の時間(場合によってはお金も)を費やして面倒をみることになるのだけれど。

本当に「面倒をみる」必要ってあるの?

 

なぜ「面倒をみたい」と思ったか?

そもそもだけど、なぜ「面倒をみる」と決めたのか。

「面倒をみる」という行為は、以下のような作用があって行うのだと思う。

  • 自身の心の中の叫び:「今、このひとを助けないといけない!」「力になりたい!」など、自発的なもの
  • 外からの圧力:周りの雰囲気が「面倒をみる」という方向にあり抗うことができない、メンツがあるから断れないなど
  • 駆引き:「ここで恩を売っておけば後々メリットがあるかも」など駆引きで「面倒をみる」

駆引きによる場合は対象者に自立を促す必要はないのでスコープアウトする。

自身の心の叫びに耳を傾ける場合

自身の心の中から出てくる欲求に従って「面倒をみる」と決めた場合は、

  1. その感情を大切にする
  2. その感情を冷静に受け止める

とう流れを大切にしたい。冷静になるために、以下のステップで考えるのもひとつの手。

  1. 支援全体像はみえているか?
  2. それは対象者への自立支援になるか?
  3. 「面倒をみ終わった」と完了基準をつくることができるか?
  4. 「面倒をみる」期間を設定できるか?

 

外からの圧力で決めた場合

まず考えたいのは外圧を外せるか?について。

必要ないなら「面倒をみる」必要もない。想いがないと面倒はみれないのでよく考える方がいいと思う。

 (というか、やめたほうがいいと思う、個人的には)

 

「面倒をみる」と決める前に考えておくこと

ここまで書いた内容の元になっているのは、「面倒をみる」場合の「責任」をどのように考えるか、というところ。責任とは何だろう?goo辞書によると以下のようです。

 

立場上当然負わなければならない任務や義務。「引率者としての―がある」「―を果たす」
自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと。「事故の―をとる」「―転嫁」
法律上の不利益または制裁を負わされること。特に、違法な行為をした者が法律上の制裁を受ける負担。主要なものに民事責任刑事責任とがある。
(goo辞書:「責任」から引用)

この意味だと1の任務、義務が該当するね。ちなみにWikipediaには以下のように哲学の話が載っていた。

 

責任とは、社会的に見て自由があることに伴って発生する概念である。自由な行為・選択があることに伴い、それに応じた責任が発生する。

ある行為・結果に対してある人(例えばAさん)には責任がある、とされているということは、ある行為がAさん本人にとって選択の余地がある(つまり 哲学的な用語で言えば自由意志に基づいて行うものである)と判断されていることを意味する。責任と自由は常に同時に存在し、切り離すことは出来ない。自由 の無いところに責任は存在せず、責任の無いところに自由は存在しない、とされる。

責任の概念は、他のことを意志できること、少なくとも意志したとおりの行為を為すことができるという意味での自由意志の概念を前提としている。そのため、責任という概念は、伝統的に自由意志の概念とも結び付けられてきた。

責任にまつわる近・現代的な観点からは、心に重きを置く考え方と、ある人の行為に重きを置く考え方とがある。

現代の社会において、ひとりひとりの人間は、何らかの自由を行使し行為を選択する際には、その自由に応じた責任があると認識・自覚する必要がある。 (ただし、その自由に応じた責任以外まで認める必要はない、ともされるので、どこまでが自由であったか、どこまでが選びえた行為か、どこまでが強制された 行為か、ということはしばしば曖昧で、争いの原因となることがある。)

また、責任という概念は、何らかの行為を行ったことだけについて適用されるのではなくて、行われるべきだったのに行われなかったことに対しても適用される。

また一般には、責任は原因とは区別される概念である。BがAの原因ということだけからは、BがAの責任を担うべきことが結論されることはない。

(Wikipedia:「責任」より引用)

まとめると以下のようになるかと思う。

  • 「面倒をみる」という行為はあなたの意思なのだから、みた面倒に対して義務が発生するよ

ただし、下線をひいた部分は辞書的な意味なんだけど、注意が必要と思う。

実際は「みた面倒」以外の部分でも「あなたのせいよね」とかで義務を負わされる場合がある。これはWikipediaにも記載があるけど責任の範囲が個人で異なるから。

*

阪神淡路大震災の後、とあるお寺のご住職が言っていた言葉が心に残っている。曰く、

  • 「本堂には十分なスペースがあるから、家を失ったひとたちを受け入れるべきだ」という声があった。
  • 私がとった選択は家を失ったひとたちを行政が定める避難所に誘導すること。なぜか?行政が定める避難所に避難した場合、優先的に救援物資を得ることができる。しかし避難所でない寺に避難した人には救援物資が届かない。私は法律の知識があったので意思決定に迷うことはなかった。最初は非難を浴びたがね。
  • もし本堂に避難者を受け入れていたらどうなっていたか。救援物資がない状態では寺の食糧・資金で避難者をまかなう必要がある。本堂には数十人入ることができるが、その人数を受け入れると寺の資金はすぐに底をつく。その場合、すぐに「出ていけ」という話を避難者にしないといけなくなる。そうであれば最初から指定避難所に誘導した方が善意となる。
  • もちろん長期間、責任をもって避難者の面倒を見ることができるなら、善意で避難者を受け入れたらいい。

 

「面倒をみる」ということ

 「面倒をみる」という行為は、内発的である場合は特に、とても崇高な行為だと思う。そのような気持ちを持てるひとは素晴らしい。

一方で「面倒をみる」という決定をする場合、

  • 「どこまで責任を負うことができるのか」
  • 「そのひとたちは自立に向かえるのか」

を自問自答しなければならないと思うわけです。

評価は他人がするもの。善意の行動が途中でできなくなったために「それなら最初からやらないでほしかった」といった評価を得る場合もある。これは両方にとってもったいない話だから。

 

ほなまた!

広告を非表示にする