親愛なる父へ

今回の内容

 
 
 
 ***
 
 

1: はじめに

長い間、世話になった。親父、ありがとう。親父は1940年生まれの75歳だったな。
感謝も込めて、親父との思いでを残そうと思う。
 
 

2: 「親父」というひと

2-1: ひとが好きだった優しい親父

会社を経営していた親父は、顧客が日本全国だったこともあり、頻繁に出張していたよな。
 
地方に仕事でいくと、そこの特産品をよく知人に送ってたけど、想像するにその行為は、
 
「あなたのことはいつも気にかけています」
「元気ですか?わたしも元気です」
 
という、親父なりのコミュニケーション方法だったのではないだろうか。
親父は実際、言葉で愛情を表現する事が得意ではなかったよな。だから親父なりの愛情表現のひとつだったのだとわたしは思っている。
 
別の愛情表現もあったよな。言葉以外の。
 
遠距離に住んでいるわたしは、親父に頻繁に彼に会うことは出来なかった。
親父は出張でわたしの居住エリア近くに出張する際、
 
「今日、泊まれるか?」
「時間あるか?飯でも食うか?」
 
と連絡をくれたよな。年間で3、4回あったかな。
 
でも親父が亡くなるまで、これが親父のやさしさとは気付かなかった。鈍感なこどもで悪かった。
 

2-2: 食に関心が強かった父

いつからかわからないけど、食への関心が強かったよな。
例えば夏野菜を夏以外には食べなかった。理由が
 
「体を冷やすから」
 
と言うのが親父の理屈やった。たぶん正しいと思うよ。
 
他にも美味しい店を探して、作り方を真似たり、教えてもらったりして、自宅でその料理を再現していたな。
 
お好み焼きの作り方も様々な工夫の末、生地を薄くして焼くお好み焼きに行き着いた。
わたし達がおいしそうに食べるのを見て喜んでたな。
 
以来10年以上、いや20年以上かな、親父のお好み焼きは、関西、関東でよくあるお好み焼きとはちょっと違ったスタイルになったよな。
 
餃子にもこだわりがあったけど、こちらは「作る」より「食べる」が専門だったようやな。
大阪北の「珉珉」の餃子は美味かったな。10回は一緒に行ったな。最後の方は、あまり量をいけなかったから、「餃子2枚と酢豚+瓶ビール1本」やったな。
最後に「珉珉」に行ったとき、写真を撮っておいた方がいいかなと思って、はにかんだ親父の写真3枚。うち1枚を遺影に使ったで。
 
親父との食事の思い出で外せないのは、元旦の夜の恒例行事、大阪ミナミの河豚料理屋や。河豚のヒレ酒、てっさ、てっちり、河豚のから揚げ、河豚の白子、シメは雑炊。
何年続いたかな。覚えてないけど、5年は続けたかな。
 
最後に親父が自宅で作っていたのは味噌汁やったみたいやな。
ダシをとるところから行うこだわりだったが、作っている途中で体調を崩したので未完成やったやろ。
 
 

3: 癌と戦った父

3-1: 最初の癌

最初の癌がいつだったか、覚えていないけど、胃癌が見つかったのは人間ドックの検査やったな。
内視鏡手術で除去したけど、確か2年後に新たに胃癌が見つかって、大事を取って胃を全摘出したな。
 
胃を取らない選択がないか、セカンドオピニオン受けたら?といったら、
 
「今の先生を信じているからいらん」
 
といったのは親父らしいと思った。
 
聞くところによると、胃にはリンパがはりめぐっていて、転移しやすいとのことで今後を考えての決断やったな。
 
 

3-2: 厄介だった肺癌

厄介だったのはその後の肺癌。
2014年の4月頃だったと思うけど、親父は背中が痛いというようになったよな。眠れない痛みということでだったので、胃癌のこともあったし、わたしは何度か胃癌をケアした病院での診察を勧めたけど、忙しいとか言って本気にならなかったよな。
 
今思うと、あれが判断の分かれ道やったと思う。
 
親父はペインクリニックなど、いくつか診察を受けたようだったが、結局、夏に行った赤十字病院で肺癌がわかったやろ。まあ今更言っても仕方がないのはわかってるのだけど。
 
肺癌は胃癌からの転移ではなかったみたいやね。新しい癌が親父の体を蝕んでいたのは何というか、まあ仕方がなかったかな。
 
でもこの肺癌は厄介なことが2つあったな。
1つは肺の後ろの背骨に張り付いていて、背骨を浸食していた(えぐっていた)。
イメージとしては、既に癌が背骨の一部の役割を担っている状態になってて、仮に摘出できた場合、えぐられた背骨の部分が無くなるので、背骨がポキッといってしまうリスクがあった。
 
もうひとつの肺癌は心臓にある血管に張り付いていて、血管を圧迫していた。こちらも引きはがすことが難しい。
当時は、癌が血管を破ってしまうことが懸念されていたな。
 
そのため治療方針は、外科的手術を諦めて、放射線治療と抗癌剤治療の併用が選択されたな。
 
 

3-3: 生へのこだわりの強さ 

それでも関心したのは親父の生きることへの精神力は強さ。

抗癌剤は5つ試したな。何度か一緒に主治医の話を聞いたけど、それも今となっては思い出。最後の薬は、自身の免疫力を高めて癌細胞を弱らせるという新薬やったけど、説明を聞いているときに、若干ぼーっとしているように思えて、

「親父、いつの間にか年を取ったなー」

と、実は心の中で思っていた。

まあ、とにかく、治る可能性があれば何でもやるという強い意志を親父から感じていたわ。

 

そういえば、親父は医者頼みだけにしなかったな。どこで調べたのか、

 

「わしはニンニクで癌をやっつけてやる」

 

と言って、毎日ニンニクを食べるようになったな。あれ、正直なところ、周りはかなり「臭い」と思ってたらしいで。

1個食べているといっていたように記憶しているけど、「臭いのはしゃーない」と言っていたな。

ニンニクを食べるようになったのは、余命半年と宣告されてからだったかな。

 

親父は会社を経営していたので、もし余命がわかるなら、彼には状況をすべて伝える必要があると考え、主治医にも、病状は正確に本人に伝えるよう、依頼していた。

 

だから、死と向かい合って1年2か月生きたことになるな。

余命宣告後から、わたしはほぼ月1回のペースで、親父と食事をとるために日帰りで帰省したけど、嬉しかった?

片道3時間だったけど、わたしは苦ではなかったよ。

幸運にも親父は抗癌剤投薬の検査入院以外は普通に暮らしていたので、二人で外食しながらいろいろな話ができたのは嬉しかった。本当に。

最後に親孝行、できたかな。あの時間がわたしにとっての親父との遺産になっている。

 

4: 父の死

ニンニクの効果か、「余命半年」の年月であった2015年8月を乗り切って、その後8か月延命し、2016年4月17日に息を引き取ったな。たぶん覚えてないやろから、入院あたりから書いておくな。

時系列で書くと以下になる。

 

  1. 3/26土:腸捻転を自宅でおこし、赤十字病院に救急搬送される
  2. 3/27日:開腹手術以外は難しいとのことで緊急手術を受ける
        そのまま入院
  3. 4/12火:(電話) 状況が良くない旨、主治医から連絡あり
        状況によって緩和ケアの病院に転院を示唆される
  4. 4/15金:(電話) 父の容態が更に良くない旨、連絡がある
        転院の場合の方法について、詳細を病院と話しをする
        わたしが4/21木に病院に行き、主治医と話しをする方向で調整
  5. 4/17日 9:01:病院から着信、看護師より父の状況がかなり悪い旨、連絡あり
          わたしは帰省の準備を始めた
  6. 同 9:45:病院から着信、主治医より父の意識が無くなっていて、容態がかなり悪い旨、連絡あり
  7. 同11:44:電車移動中に再度、主治医より着信(出ず)
  8. 同11:46:次の駅で下車後、病院にわたしから電話し、父の死亡を知る

 

抗癌剤の影響かわからないけど、腸捻転には悩まされたな。最後の入院は自宅で腹痛を訴えて救急搬送されたのが発端。外科手術で腸捻転を治した。

そして術後の回復を待ち、その後、5つ目となる抗癌剤の投薬のため、入院を継続したな。

その最中、心臓の血管に張り付いていた肺癌が心臓を強く圧迫し、それが原因で息を引き取ることになった。

 

聞いてないかもしれないけど、息を引き取る1週間前に主治医から「父の状況が思わしくない」旨、聞かされていた。

亡くなる2日前の金曜日にも、主治医と以下を話した。

 

  • 肺の酸素量が減っているため、いきなり息を引き取ることになる可能性がある
  • 一度、病院にくることはできないか

 

だから4月21日の木曜日に主治医と面談するための会いに行く予定だった。
でも会えなかったな。
 
4月17日の日曜日、朝の9時頃に携帯に着信。病院からだった。
 
  • 父の意識が無くなっている
  • 肺の酸素量が大きく低下している
  • はやく病院に来てほしい
 
とのことだった。驚いたよ。
 
でも、どれだけ急いでも4時間はかかる距離のところにいた。知ってるよね。
だから、わたしは、葬儀の準備して、病院に向かったのよ。
 
思っていたよりはやい展開だった。
 
病院に向かっている途中、主治医から再度電話があり、親父が息を引き取ったことを知った。
 
主治医の説明によると、癌が圧迫していた心臓の血管は、肺に酸素を供給する血管で、その結果、肺への酸素量が低下したらしい。
肺に水も溜まっていたようで、親父は意識が朦朧として、その後意識を失い、他界したみたい。
 
75歳。
 

若すぎることはない。 

でも親父はまだ生きたかったんよね。

 
 

5: 葬儀

お願いしていた「エンディングノート」を書いてくれてなかったから、親父の兄弟親戚には連絡ができなかった。子供の頃だけ付き合いがあったけど、その後は疎遠だったし。
 
親父は母の宗派が嫌だったよね。でもわたしは母の宗派だったので、その宗派で親父を見送った。親父は、
 
「葬式はいらん。骨はその辺にまいとけ。」
 
と言って、葬儀代も残していかなかったけど、やっぱりこどもとしては、それはできない。
 
親父はひょっとすると、母の宗派が嫌いだったのでそのように言ったとも考えることができるけど、でも違うよね。
わたしが思うところ、単に墓を共にする人が居なくなったので、どうでもよくなった、というところではないか?
 
離婚後、親父がお付き合いしていた方がいたけど、その時、某寺に共同で墓か納骨かわからないが申し込んだようなことを聞いたよ。
結局、女性の方が親父とはやっていけないと判断し、別々の道を歩むことになったんでしょ。
 
日本では信仰を持つということは「新興宗教にはまる」的なイメージがあるかもしれないけど、他国に目を向けると信仰をよりどころにしているひとは多い。
 
親父が好きになった女性は、わたしは2人しか知らないけど、ふたりとも信仰を持っていて、その価値観が合わずに分かれる結果になったね。まあ、それもまた人生。
 
話をもどすけど、親父を母の宗派で弔ったけど、それはわたしにとっての親孝行。だから親父、死人に口なしで文句は受け付けないよ。
 
でも、親しいひとから、
 
「彼が嫌がっていた宗派で葬儀をするのは彼が可哀想だ。彼の生前の望みは2つだが、どれもかなえられないのは、彼は可哀想だ。」
 
と言われたわ。
 
親しいひとに、「親不孝」と言われるとさすがに寂しいね。
たぶん、こういうのを、「弱り目に祟り目」というのだろうと思った。 そのうち、笑ってネタとして語れる日がくることを強く望むわ。
 
親父の「もうひとつの望み」は、頼まれていた例の件だけど、あれは問題があったのでできなかった。ごめんね。
 
さて、葬儀だけど、喪主の挨拶というのがあるよね。
わたしは参列してくれている方々に、父がどのようなひとだったか、知ってほしいと思った。
いや、正確には、わたしが父についてどのように感じていたかを聞いてほしかったというのが正しいかもしれないな。
その時、映画の「Four Weddings and a Funeral」を思い出していた。
 
結局、喪主の挨拶で、10分くらい口上をしていたみたい。このブログに書いたような話をしたよ。
 
 
葬儀後、おじさん、おばさんに連絡がとれた。
お別れの会をやったけど届いたかな?従姉は成長していたし、叔父叔母は年取ってた。まあ当たり前だけどね。
 
四十九日が今週の土曜日にある。
親父が言ってたのと少し違うけど、富士山の近くに合葬するね。散骨に近いでしょ?
 
その後も、供養するからね。
 
今までありがとう。
 
 

(追記)納骨

親父、静岡県富士宮市の寺院に、親父の遺骨の合葬をお願いしてきたよ。夕方には合葬されるって。

まだ百箇日法要、一周忌法要、三回忌法要とあるけど、納骨が終わると何だか一段落したみたいな気分。


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親父とは二度と話はできないけど、離れて暮らしていたからあまり実感がない。

冷たくなった親父の顔、何度も触ったのにね。



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